私たちは、日々の生活の中で、様々な音に触れる。
音によっては快ちよい。ある晴れた日曜ののどかな昼下がりにモーツァルトの音楽を流してみてどうだろう?
一方耐え難い不快感を感じることもあるだろう。その愛すべき昼下がりに、暴走族がけたたましい音で駆け抜けたとしたら・・・・。
その暴走族当人たちにとっては、その爆音が快感なのだろうか?。いや、その人にとってみても、被害者の立場にたてば同様に不快を覚えるはずだ。
一般に、騒音を問題にする場面では、自分にとって都合の悪いケースをいうのだろうが、それはいったいどのようなものだろうか?あらためて考えてみよう。
先の例から行っても、単に音が大きいというだけでは騒音とはいえない。
先の暴走族の例以外でも、意外に身近な例ではもっと頻繁におこっている。ハードロックのコンサートに行く人にとって、その音楽は快いものなのだろう。
逆にボリュームをしぼってもらっても、ハードロックにはいやだという人もいるだろう。
しばしば、電車の中でヘッドフォンで音楽を楽しんでいる人がいるが、それからもれる音楽は、シャリシャリした感じで私にはどうにも耐え難い。一応ヘッドフォンで聞いているというのは周りへの配慮ともとれるが、残念ながら本当に不快な音を漏らしている方もいらっしゃる。何回か注意したことがある。が、最近ちょっとした注意に逆切れして暴力をふるう方もいるようだから、そうそう簡単に注意もできない。
逆にそもそも小さいのに十分不快な音もある。
蚊のブーンという音が何DBなのか計ったことはないが、特に寝入りばなに耳元で飛ばれると私は気になってしょうがない。
まさに個人差のある感覚だ。
これらの個人差のある感覚が、人間関係の中でトラブルが発生した時に騒音問題が表面化する。
騒音問題の発生は以下の点がかぎになる。
1.音の受け手が、受ける機会とその量と性質、そして発信源をコントロールできないこと。
2.音の受け手がコントロールできないものが、不快であること。または必要の無い音であること。
騒音問題には、音の音色や音量が大きくてうるさいという物理的名側面と、音を出している人が気に入らない、音をだしている事業が気に入らない、こちらは被害をこうむっているのにちっとも対応してくれないなどという心理的な側面もある。また、環境にも左右される。
冷蔵庫は35db(A)くらいだが、一般家庭では気にならなくても、ワンルームでは気になる人も多い。
工場でお金を設ける人にとっては騒音と感じられなくても、働いている人にとっては場合によって騒音と感じられる。一日8時間85db(A)以上の騒音にさらされる場合は、難聴になる危険性がある。
ごく低い周波数の音のみが聴こえる、あるいは近くされると低周波音問題が発生する。(モーター、ボイラー、車のアイドリング、高速道路橋等)最近は住宅街でも、空調機の屋外機の音がうるさいなどの苦情もある。
同じ音でも快、不快の評価に個人差はある。大きすぎる音、嫌悪・不快感の音、仕事に悪影響を及ぼす音、思考・会話などの妨げになる音などの種類がある。
このような様々な現象に対して、人間の満足感を得られるようにするには、どのように解決していけばいいのか?
ひとつの試みをここに記したい。
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